夏休み高野山宿泊プラン
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世界遺産登録5周年目夏休み高野山特集
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(写真は大門)
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高野山に参詣するには、「高野七口」といわれる七つの登り口があった。この大門口もその一つであり、高野開山の当初から開かれ、弘法大師が御在世の頃、都への行き返りにお通いなされた表登山口である。
その当時、山麓に一院を設け、ここjに政所を置いてふもとの拠点とされた。これが今の慈尊院である。ここには大師の御母公がしばらくお住まいになり、この地で入寂なされた。また中腹の天野神社には、高野山の地主神がまつられて、共に高野山とは不離一体の深い関係にあった。ゆえにこの口は、山の上下を結ぶ大きな役割をしていた |
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ページ内の高野山詳細リンク
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大門・ 金剛力士像・ 高野山の歴史・ 金剛峯寺・ 根本大塔・ 伽藍について・ 金堂・ 御社
奥の院・ 織田信長の高野攻め・ 霊宝館 |
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大師の教え
真言宗は、弘法大師 空海(以下 お大師さま)の立教開宗による、仏教の心髄の教えを説く密教の宗派です。
お大師さまが中国へ渡り、時の都長安(現在の西安市)で、密教の伝承の第7番目の祖、青龍寺 恵果和尚より授かった密教を広く日本へ伝える為に開かれました。
密教の根本の仏様は、宇宙の本体であり絶対の真理である大日如来を本尊とし、真言は「オンアビラウンケンバザラダトバン」です。お大師さまは、一切の衆生を救う為にこの真言宗を開創され、人々に密教の教えを広く流布されたのです。(参照 http://www.koyasan.or.jp/oshie/index.htm 高野山真言宗
総本山金剛峯寺l)
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開山以来、表玄関の役割を果たす高野山一山の総門。九度山町の慈尊院から続く町石道の表参道を上ると、ここからが山内となる。開創当時は現在の位置から500m下の九折谷の谷底に木の鳥居があった。高さ約25mの現在の朱塗の楼門は、1705年(宝永2)に再建されたもの。1986年(昭和61)にも大がかりな解体修理が行われた。大門の両脚に構える高さ4.8mの力強い金剛力士像は、阿形像を仏師康意が、吽形像を法橋運長が造ったとされている。ここからの眺望がよく、晴れた日には山並みの向こうに紀淡海峡から淡路島まで望める。また、大門の左の赤い鳥居から原生林に囲まれた山道を約600m登ると、高野山最高峰の弁天岳に至る。
高野山霊宝館【高野山と文化財:指定建造物
大門】
奈良の東大寺南大門の金剛力士像に次いで大きな像といわれています。阿形像の像高は546.0センチメートル、吽形像は558.0センチメートルあります。向かって右の阿形像は、京都の仏師である康意が造立し、吽形像は同じく京都五条の仏師、運長が造立したことが胎内の納入品である書き付けから判明しています。
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高野山へのアクセス
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高野山の歴史
高野山は和歌山県伊都郡、紀ノ川の南方、海抜100メートルの山上にあり、周囲を高峰に囲まれた東西6キロ南北3キロの盆地である。
今から1200年前の昔、大同元年(806年)弘法大師が唐より帰朝後、真言密教の道場を開くため、都塵を離れた幽玄の地を紀伊、大和の山中に探し求め、この地に嘱目なされた。弘仁7年(816)、ここに真言道場を開きたき旨を、時の帝、嵯峨天皇に上奏して高野の地を賜ったのである。当時賜った地域は広範なもので寺領一万町歩といわれている。翌同八年、諸弟子及び工人等多数を伴い登山され、開山に着手なされた。これが高野山金剛峰寺のはじめである。
承和2年(835)、伽藍の完成を待たずして大師御入定があり、高弟の真然大徳がその後を継ぎ伽藍を完成。以来仏教各流の衆禅の大道場として栄え、徳川時代の正保の頃には大小2000に余る寺坊が廂を並べた。この反面には数々の火災と内紛等による興亡の岐路に立つことも多々あった。その後、元禄の大整理、明治維新の大変革を得て今日に至る。
高野山の現況
明治維新に際し、寺領及び外山の森林等を全て国家に奉還し、山上を以って境内と定めた。現在は伽藍と奥之院の両壇を中核に総本山のほか117ヵ寺あり(うち宿坊寺院53ヵ寺)、これを主体として約1000戸の商家と、4000の人口が山上に住み、全高野町勢の半数を占めている。また高野町の各機関は総てこの山上に置かれ、全国でも稀に見る境内街を形成している。
http://www.wakayama.hello-net.info/kouyasan.html
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(写真は高野山総本山金剛峰寺)
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高野山は弘法大師 空海が、弘仁7年(西暦816年)に嵯峨天皇より高野山開創の勅許を得、真言密教の根本道場としてお開きになられました。数年後には開創より1200年を迎える弘法大師様の御教えが連綿と続く歴史あるお山です。
標高1000メートル前後の山々に囲まれた平坦地に諸堂が立ち並ぶ姿は、『蓮』の花が開いた様であり、『八葉の峰』とも呼ばれ、内に八葉(峰)外に八葉の山々に囲まれています。内の八葉は、根本大塔をめぐる八峰で『伝法院山、持明院山、中門前山、薬師院山、御社山、神応丘、獅子丘、勝蓮華院山』と呼ばれ、山上の周辺にそびえる外の八峰は『今来峰、宝珠峰、鉢伏山、弁天岳、姑射山、転軸山、楊柳山、摩尼山』とよばれています。その地形からしても、まさしく聖地としてふさわしい山上の宗教都市です。
http://www.koyasan.or.jp/shiru/index.html |
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前の大塔は天保14年に焼失、それ以来、約100年もの間その姿を見出せなかったが、弘法大師の1150年御遠忌に際し再建が計画され、昭和12年(1937)に完成した。この塔の形容及び内部の荘厳など真言密教の根本理念を表徴することから根本大塔と呼ばれる。高さ約50メートル、虚空にそびえる丹色の姿は壮麗である。
弘法大師の高野山開山の目的は、真言密教の根本道場として、伽藍を創設することにあった。そのため高野山開山当初にこの伽藍の地が拓かれ、まず講堂(現代の金堂)を創建、ついで鎮守として高野明神(現在の御社)を勧請され、引き続き大塔その他諸堂が建立された。
なかでも大塔の造営は大事業であり、弘法大師とその後を継いだ真然大徳との二代にわたって完成されたのである。
伽藍の完成から約130年、正暦5年(994年)に大塔に落雷があり伽藍を全焼する被害に遭う、その後、天保14年(1843)の大火災まで前後5階に渡り再興しては火災に遭い、そのつど全焼に近い痛手を受ける。思えば災難でつづられた歴史である。
天保の火災後、大師の遺徳のもとに、関係初師の精進と信者の篤志により逐次再興が進められ、昭和12年に大塔の再建も成り、今日の伽藍の姿を整えたのである。ただ、惜しまれるのは、古い歴史に比較してその健物が新しく、いささか物足りなさを感じる。そのうち不動堂だけは明治41年に一心院谷からこの伽藍境内に移され、鎌倉時代の優美な姿を見せ続けている。
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創建当時は講堂と呼び、弘法大師が伽藍の造営に当たり最初に建立されたものである。創建以来しばしば火災に遭い、現在の建物は昭和7年の再建。本尊に薬師如来を祀り、高野一山の本堂である。内部の壁画は木村武山の筆。
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弘法大師が伽藍開創に当り、鎮守として地主神丹生、高野の両明神を勧請、のち気比、厳島の2神が祀られて四社明神という。建物は大永2年(1522)再建。
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(弘法大師の御廟)
(秀吉の墓)
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奥の院の入り口の一の橋から弘法大師の御廟まで2キロ、この間の参道両側に、老杉を交えて、苔むした五輪碑が立ち並ぶ景観は全国でも珍しく、高野山独自のものと言える。
この参道の墓群について少々駄文を連ねてガイドの役割を果たしたい。ここに墓標が建て創められたのは、鎌倉時代かと推測されるが、その当時のものは形も小にして、その数も少ない。もっとも盛んに健碑の行われたのは江戸時代であり墓碑の形態も大きく立派なものになったこれは徳川幕府の平和政索に基づくもので、徳川家においても高野山に家康の霊廟を建て、祖先崇拝の風習を強く押し奨めたため、全国各地の大名は競ってここに墓城を構え、次々と健碑が進められたのである。また一説には徳川の政索として全国の大名に兵馬の養う財力を、こうした方面に消費せしめたとも言われているが、とにもかくにも交通は不備にして機械力がない当時の高野山において、石材の総てを瀬戸内海辺りの産地から運ばせたもので、一基の健碑と言えども容易の業でなかったと思われる。これは徳川の平和政策の所産とも言えるが、また一面大師の膝元へという願いが秘められていたに違いない。その後、一般市民のこれに習い宗旨の別れなく、続々と健碑が行われ、今日の大墓群を成したものである。ここに群がる墓石の数は大小合わせて10万基とも言われ、その大半は徳川期又はそれ以降の健碑と見られるが、それ以前の古いもので、由緒あり年代の詳名ものは史跡にも指定されている。 |
(信長の墓)
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織田信長に叛いた尼ヶ崎の荒木村重の家臣5人が追われて高野山に遁れて来た。時は天正8年3月5日のことである。仏の慈悲として兎も角ももこれを匿ったが、同年の10月信長の命により捕り手32人が登山、捜索の名のもとに諸寺諸堂を甚しく荒らした。血気に逸る若僧達の一団これに激憤、彼らに酒を振舞いことごとく傷めた。
これを聞いた信長の怒り頂点に達し、全国を巡る高野聖をことごとく捕まえよと命じた。このこと叡慮し、勅旨を以って詫びを入れたが、信長これを承服せず天正9年8月末日、安土の町外れと京都の七条碩で高野聖600人の処刑を行い、更に10月高野攻めを命じて兵を下した。これを知った高野側では領内の武士浪人僧兵を以って、各登山口の要所を固め、双方対峙の裡にその年は暮れ、翌10年を迎えて戦いますます激しく、老僧達は怨敵調伏の五壇法を修し、護摩の煙り山中に渦巻く日々が続いた。
遂に霊験あり?6月2日の未明、本能寺に於いて信長は家臣の明智光秀の叛逆に遭い最期を遂げた。このことが早馬の注進により伝えられるや忽ち高野攻めの軍は引き揚げとなり、信長の高野攻めも空しく終わりを告げた。かくして光秀の叛逆が図らずも高野の難事を救う結果となった。(高野山ガイドブックより)
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高野山は開創以来しばしば火災に見舞われ多くの重宝を失った思われるが、なお今日まで伝えられた文化財は5000点に余る。一山の貴重な文化財を保存し、その一部を一般に拝観できるように大正10年(1921)に霊宝館が建てられた。また保存すべき文化財の増加にともない、昭和36年(1961)に、霊宝館南方の敷地大宝館が建設され、各寺院に分散する文化財を収蔵保管することになった。昭和59年と平成15年に空調設備と防災対策が備わった収蔵庫が建てられ、文化財の保存が行われている。高野山ガイドブックより)
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